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Jazz Essay 1 / ジャズの起源と発生については、誰にも正確なところはわからない

 「ジャズの起源と発生については、誰にも正確なところはわからない」というのが初回のテーマ。「ジャズとはアフリカ系音楽のリズムと白人音楽のメロディーやハーモニーがあいまって生まれたもの」あるいは「ジャズとは、アメリカにつれてこられたアフリカの奴隷たちの、スピリチュアルやブルースが発展したもの」などと、さまざまな仮説がでていますが、21世紀初頭の現在、これぞ本物……と世界中のお墨付きを得た説は、まだありません。多くのジャズメンは、ジャズは、考えるのではなく、感じるもの。歴史や理論など、どうだっていいじゃないか、と考えているのです。
以上のことを頭に入れたうえで、あくまで参考として、以下の文をお読みください。
 お話は、アフリカで始まります。アフリカの人々(正確にはサハラ砂漠以北のアラブ系アフリカ人ではなくサハラ砂漠以南のブラック・アフリカンをさす)は、昔から、音楽をコミュニティの生活の一部として重要視してきました。結婚、出産、葬儀、戦い、まつりごとなど、彼らにとって重要な出来事のすべてに、音楽が使われていたのです。そして特定のリズム、特定の音が、それぞれの部族で、特別な意味をもっていました。彼らが音楽に求めていたものは、興奮と刺激、仲間との一体感。文明から離れ、自然にちかい生活をしている人々の多くが、そうであるように、彼らもまた、基本的に楽天家で、ストレスにさいなまれることが少なく、音楽に安らぎやいやしを求める必要などなかったのでしょう。アフリカ音楽と西洋音楽のもっとも際立った違いは、アフリカ音楽の方が、リズムが複雑で刺激的なこと、そして使われている音が少ないことだといわれています。音が少ないから表現力が乏しいのかといえば、そんなことはなく、わずか1音か2音を、変幻自在の音色やリズムで演奏し、聞く人を魅了させることができました。こうしたアフリカ人の、音楽性が、のちに、ジャズの誕生と成長の過程で、存分に発揮されるのです。
 アフリカの人々にとって不幸なことに、彼らの多くが、やがて、奴隷として、アメリカにつれていかれました。そしてカリブの島々や、北米、南米のブラジルなどで、異文化と出会い、衝突や融合を繰り返して、新しい文化をつくってゆきます。ジャズはその代表といっていいでしょう。
 ジャズが生まれるまでの経緯は、先に申し上げたように、定説が確立していませんので、ここでは記述を避けますが、こんにち、私たちがジャズと呼ぶ音楽の原型、ディキシーランド・ジャズは、南北戦争終了後、南部の港町、ニューオリンズで、産声をあげたといわれています。その時、重要な役割をはたしたのが、ブラック・クレオールとよばれる人々でした。ブラック・クレオールとは、フランス人やスペイン人とアフリカ系の人の間に生まれた子供、もしくはその子孫のこと。アングロサクソンとも黒人とも違う階層であり、当時のニューオリンズ文化の担い手でもありました。19世紀後半、ニューオリンズには、南部の農村地帯から、生活に困窮した解放奴隷が流入し、港湾労働者として働いていましたが、そこで、アフリカの文化とフランスやスペインの文化との遭遇があり、ディキシー・ランド・ジャズが生まれたとされています。
 「ジャズの原型は、19世紀終盤、ニューオリンズで形作られた」というのは、アメリカでも、定説になっていますから、そう考えていただいていいでしょう。
 1910年代、ディキシーランド・ジャズは、まだ、ニューオリンズ以外の土地では、ほとんど知られておらず、ミュージシャンの数は、2、300人程度、聴衆はおもに貧困層の黒人労働者で、その数はせいぜい5万人といったところでした。しかし、この刺激的でパワフルな音楽は、20年代以降、急速に成長。20年代後半には、全米に普及、30年代後半には、ヨーロッパの大都市に、あまねく伝えられます。
 第2次世界大戦では、アメリカ兵のゆくところ、必ずジャズあり、といわれたほどで、戦争が終わったあと、ジャズは世界中で演奏される、メジャーな音楽になっていました。
 あとはみなさんご承知のとおり。ジャズは、わずか100年のあいだに、驚異的な勢いで、発展し、進化したのです。
 はじめに、ジャズの起源については、いまだ謎の部分が多い、と書きましたが、それは、成長のスピードが速すぎて、検証が追いつかない、ということでもあります。
 ここに書いたのは、ジャズの歴史の導入部。みなさんには、実際に演奏を聞きながら、ジャズの来し方を振り返って見ることを、おすすめします。では第1回は、このへんで……。


Jazz Essay 2 / ビリー・ホリディ

 今回のエッセイのテーマはビリー・ホリデイ。髪に白いくちなしの花を髪にさし、レイディ・デイと呼ばれた、この褐色の歌姫は、いわゆるジャズ・シンガーのイメージを決定づけた1人でした。

 ビリー・ホリデイ(1915年?生、1959年没)は、管楽器の演奏家が主役だったスイング・エイジに、1人異彩を放った歌手。彼女はジャズ界のスターであり、カリスマであり、抑圧されたアフリカ系アメリカ人の象徴でもあった。ホリデイが著作家ウィリアム・ダフティの協力を得て出版した自伝「レイディ・シングス・ザ・ブルース」は、ジャズ関係の本としては空前のベストセラーになり、のちにダイアナ・ロス主演で映画化されている。

 「レイディ・シングス・ザ・ブルース」は「両親が正式に結婚したのは私が三つの時だった。その時、父は18才、母は16才だった」という衝撃的な一文で始まっている。彼女の母は13才でホリデイを出産したことになるが、彼女の出生については生年月日も含めて真実かどうかはわかっていない。父のクラレンス・ホリデイはサックス奏者を志していたが、第一次世界大戦に出征中、毒ガスで肺をやられ、サックスを断念。のちにギタリストとして成功をおさめている。母のサディ・フェイガンはアイルランドの血が四分の一入った混血女性。いずれにせよティーンエイジャーの2人に娘を育てる力はなく、父は演奏旅行に、母はニューヨークに働きに出かけ、ホリデイはボルティモアの母の家族のもとに残された。ホリデイの自伝には、幼少時代、親族や隣人から虐待されたこと、近所の売春宿の使い走りをしたり、床磨きのアルバイトをしたりして、わずかなお金を稼いでいたことなどがつづられている。

 ホリデイは12、3才の頃、むかえにきた母とともにニューヨークに転居。まもなく売春で摘発され、4ヵ月間を感化院で過ごした。
 ニューヨークでの母娘の生活は困窮。10代なかばのホリデイがクラブ歌手になったのは、チップを稼ぐためであったという。
 まもなく、その歌唱力が認められ、ホリデイはアポロ・シアターの晴れ舞台にデビュー。その後はとんとん拍子に出世して、ベニー・グッドマン、レスター・ヤングといった一流のジャズメンとのレコーディングの話が、舞い込むようになった。
 はたから見れば栄光の時代。しかし、1930年代のアメリカ社会は、アフリカ系アメリカ人にやさしくはなかった。ホリデイは白人のアーティー・ショウのバンドの専属歌手に抜擢されるが、巡業先では、レストランもホテルも白人とは別。行く先々で味わう差別に、ホリデイは身も心もズタズタにされてしまう。  1938年から出演するようになったニューヨークのクラブ「カフェ・ソサエティ」はホリデイの人生を変えた場所だった。そこで彼女は「奇妙な果実」を初めて歌う。「木の枝に黒い体が吊り下げられ、ゆらゆらと揺れている……」奇妙な果実とは、リンチにあって縛り首にされた黒人のことだった……
 この時以来、ホリデイは好むと好まざるとに関わらず、ロマンティックな歌、楽しい歌を歌う歌手とは、はっきり一線を画すことになる。
 幼い頃、両親に置き去りにされ、差別や虐待を味わいながら育ったホリデイは、情緒不安定で傷つきやすい女性だった。だからこそ、魂の叫びのような歌を歌うことができたのだが、やがて、その性格が、彼女を破滅へと導くことになる。 歌手として功なり名をとげたホリデイの周囲には、お金めあての男性が群がるようになった。たびかさなる男たちの裏切り……。ホリデイは寂しさからのがれるため麻薬に溺れてゆく。
 麻薬は彼女の身体をむしばみ、美しい声を奪った。麻薬中毒で、監獄に入れられたあとも、お金のため、かすれた声を振り絞って歌い続けたホリデイ。
 1959年、ホリデイはついに倒れ、10週間後、病院のベッドで亡くなった。1959年7月17日。まだ40代のなかばだった。

 ビリー・ホリデイは生きざまも強烈だったが、歌手としての才能も、並外れていた。特にブルー・ノート(ジャズ特有の音で7度、5度、3度の音をフラットさせて、不協和音による独特の緊張状態をうみだす)の使い方は天下一品といわれている。少女時代、ルイ・アームストロングやベッシー・スミス(ブルースの女王)の歌をくりかえし聞いて学んだというフレージングも余人には真似できないもの。大声でシャウトすることなく、抑制した歌いかたで、情感を表現するという手法も、ホリデイによって初めて確立されたものだった。

 ビリー・ホリデイは苛酷な運命にもてあそばれた女性だったが、同時に、そのいきざまを表現する音楽的才能を有していた。だから、彼女は、不滅のジャズ・シンガーとして、後世に語り継がれることになったのである。心の中に渦巻く愛、憎しみ、悲しみ、怒りを、ブルーノートを駆使した独特のフレージングで表現したホリデイ。その歌は、時として、聞く人の血を凍らせるほど、壮絶なものであった。


Jazz Essay 3 / Swing Age

 ジャズの原型は、19世紀終盤、ニューオリンズで形作られたと言われています。そのころ、ニューオリンズには、南部の農村地帯から、生活に困窮した解放奴隷が大量に流入し、港湾労働者として働いていましたが、そこで、アフリカの文化とフランスやスペインの文化との遭遇があり、ディキシー・ランド・ジャズが生まれたとされているのです。当初は主として黒人だけが愛好するローカルな音楽でしかなかったジャズは、1920年代から30年代にかけて大きく発展。その舞台となったのがニューヨーク。キイワードは「スィング」でした。「スィング」とは、「ジャズ演奏における躍動的調子やリズム感のこと(広辞苑)」、今までにない、刺激的で新しいサウンドが、白人社会の若者も虜にしたのです。
 フレッチャー・ヘンダーソン、デューク・エリントン、クロード・ホプキンス、ドン・レッドマン、ルイス・ラッセル、ジミー・ランスフォードといった人々がスィング・エイジの先駆者。いずれも1898年から1903年の生まれで、当時、アフリカ系アメリカ人の社会ではまだ、ごくごく少数派だった豊かな階層の出身でした。ヘンダーソンの父は高校の校長でエリントンの父は海軍の技師。2人は恵まれた環境のなかでクラシック音楽に親しみながら育ちます。しかし、当時のアメリカは人種差別が厳然と存在していた時代。能力があり、黒人の学校で高等教育を受けていても、社会の中枢で活躍する機会はありませんでした。思うように職につけず、挫折を味わった彼らは、ニューヨークにでて、当時増えつつあったダンス・クラブでミュージシャンとして働き始めます。クラシック音楽の素養を持ち、読譜や編曲ができるエリート階層の黒人と、魂の叫びをそのまま音にする従来の黒人ミュージシャンとの出合い……。それがジャズを大きく飛躍させる引き金になりました。20世紀の前半は、美術の世界でも、ピカソがアフリカの彫刻作品を題材にするなど、アフリカ芸術に光があてられた時代。ビッグバンドを編成し、刺激的なアフリカ音楽を洗練されたかたちで提供したヘンダーソンやエリントンは時代の寵児になります。その頃、ミドルクラスの黒人たちが居住していたニューヨークのハーレムで隆盛を誇っていたのが「コットンクラブ」。エリントンが出演していたこのクラブには、新しいもの好きの白人たちが大挙して押しかけました。黒人は演奏する側で白人は客。そこには厳然たる差別があったものの、黒人たちは、みずからの演奏で、白人を虜にする、という一点において、始めて、白人より優位にたつことができたのです。ディキシーランド・ジャズとの大きな違いは、バンジョーで4分の2拍子を刻むのではなく、ドラムで4分の4拍子を刻むようになった点と、管楽器の主役がクラリネットからサキソフォンに変わった点。4拍子のリズムは、ただ一小節に四つのアクセントをいれるのではなく、三連符やシンコペーション、符点音符などで複雑に刻まれ、小粋にスィングするようになりました。
 こうして生まれたスィング・ジャズは、まったく新しいタイプの音楽として、若者たちに浸透。白人のクラリネット奏者ベニー・グッドマンの登場で、ファン層はさらに広がったのです。
ジャズが黒人の音楽から、世界共通の音楽へ、大きく飛躍するステップとなったのがスィングの時代。心が浮き立つようなサウンドの裏には、挫折したエリートたちの鬱屈とした思いがありました。


Jazz Essay 4 / 最初の天才〜ルイ・アームストリング
 ジャズ史には、The first genius(最初の天才)と呼ばれる人物がいます。それがサッチモことルイ・アームストロング。不世出のトランペット奏者であり、愛すべき歌手でもあったサッチモは、ジャズの歴史だけでなく、世界の音楽史をも変えました。

 ジャズとは一種マニアックな文化で、この世界でしか通用しない「天才」が多いのですが(それは映画界でいう「奇才」と似ています)、サッチモは、正真正銘の天才。その豊かな表現力は、天賦のもので、しかるべき環境や教育が与えられたなら、劇作家や造形作家としても、大成していただろうといわれています。

 サッチモの最大の功績は、ソロ演奏を芸術の域まで高めたこと。彼がいなければ、ジャズは、バンドによる集団演奏の音楽のままで終わっていたかもしれません。

 ではサッチモとは、どんな人間だったのか、ここでは、その人となり、ミュージシャンとしての軌跡を、たどってみることにします。

 サッチモは1900年7月4日、ルイジアナ州ニューオーリンズのストーリーヴィル地区で誕生(生年については1901年という説も有ります)。祖父母は解放奴隷、父はテレピン油工場の工員、母は白人の家の家政婦をしていました。

 幼い頃、両親が離婚、彼は始めは父方の祖母、続いて母のもとで育ちます。母のメアリー・アン(通称マヤン)はサッチモの人生に大きな影響を与えた女性。元娼婦との噂があり、サッチモと暮らしていた時には、「養父」が始終変わっていたといわれますが、サッチモは、10いくつしか年の違わない、この母を、生涯愛し続けました。

 少年時代を過ごしたストーリーヴィル地区は、貧困家庭がひしめき、犯罪が多発する典型的なスラム。学校に通うことができない子供が、裸足でごみ箱をあさる、といった光景が、ここでは当たり前になっていました。

 サッチモも、もの心ついた頃から、新聞売りや、石炭運びのアルバイトをして、家計を助けていたとのこと。ある出来事がなかったら、そのまま読み書きもできない労働者として人生を終えていたかもしれません。

 1913年の1月1日、「養父」から預かった38口径のピストルを持って町を歩いていたサッチモは、警察に逮捕され、非行少年を矯正する学校へ送られます。その時彼は14才(あるいは13才?)。そこでピート・デービスという教師に出会い、コルネットの吹き方を習います。初心者のサッチモは、めきめきと腕を上げ、まもなくスクール・バンドのリーダーへと昇格。4年後、矯正スクールをでた時には、プロとしてお金が稼げる腕前になっていました。

 日当75セントで石炭運びの仕事をはじめたサッチモは、まもなく、日当1ドル25セント、プラス、チップという好条件で地元ニューオーリンズのキッド・オリー・バンドに入団。ここでトップ・ミュージシャン、ジョー・オリバーから、指の使いかたなどのテクニックを学びます。

 1922年、彼はデイジーと呼ばれる女性と結婚、その年、オリバーの誘いで、当時、ニューオーリンズに代わってジャズの中心地になっていたシカゴに移り住みました。デイジーとの結婚はまもなく破綻し、24年には、ピアニストのリリアン・ハーディンと再婚。サッチモは、彼女のおかげで、譜面が読めるようになります。24年には、フレッチャー・ヘンダーソンにスカウトされ、始めてニューヨークで演奏。29年には生活の拠点をシカゴからニューヨークに移しました。1929年といえば、ニューヨークの株式史上が暴落し、大恐慌に突入した年。街には失業者があふれ、ミュージシャンの仕事も激減しましたが、そんななか、サッチモだけは、1年365日、仕事が入らない日がなかったといいます。

 一方で、私生活は、暴飲暴食、浪費などの悪癖がたたってトラブル続き。彼もまた「スラム街で教育を受けずに育った人間が、成功して大金を手にした途端、破滅への道をつきすすむ」というおきまりのパターンにはまったかに見えました。30年代の前半には2度目の妻ともわかれ、3度目の結婚も破綻。しかし、このあと、ルシール・ウィルソンを4度目の妻に向かえ、ジョー・グレイザーというマネジャーを得たことで、彼の人生は救われます。

 1935年以降、サッチモは、ジャズ史に燦然と輝くレコードを次々にリリースし、映画スターとしても成功。「マック・ザ・ナイフ」「ハロー・ドーリー」などの歌が、世界的なヒットとなり、ジャズという限られたジャンルのスターから、普遍的なスターへと、転進をとげました。 19世紀以前の音楽界では、演奏者は作曲家より低く見られるのが常でしたが、サッチモの登場で、その地位は逆転。しかし、彼自身は、自分はあくまでエンターティナーと、謙虚な姿勢を保ち続けたのです。
 サッチモは、アメリカで一番有名な黒人の1人でありながら、公民権運動が、全米を騒乱の渦に巻き込んだ60年代、政治的な発言を一切控え、一部の黒人の怒りと反発を買いましたが、それも、エンターティナーとしての姿勢をつらぬいたがゆえのことでした。

 ベトナム戦争の従軍兵士の慰問で、平和のすばらしさを訴える「What a Wonderful World」を歌った彼は、1971年7月6日、永眠しました。

 トランペット奏者としての彼が、特にすぐれていた点は、暖かくて豊かな音色と、強烈なインパクトをもつ吹き方。フレーズの出だしの鋭く鮮烈なトーンと、あとに続く、ビブラートで、彼は聞く者の心を揺り動かしたのです。

  そしてなにより、すばらしかったのが、その表現力。リズム楽器が刻むグラウンド・ビートから離れ、天空をとぶように、伸びやかに発展してゆくメロディーは、まさに天才でなければつくり得ないものでした。 サッチモのトランペットは、言葉よりも雄弁、あれぞまさしく一つのドラマ……そう、だからこそ、彼は天才といわれたのです。


Jazz Essay 5 / 即興演奏
 ここでは、ジャズの歴史の概要をジャズ・エッセイとして、お届けしてきました。
 テーマは第1話が「ジャズと起源と発生については、誰にも正確なところはわからない」、第2話が「ビリー・ホリデイ」、第3話が「スィング」、第4話が「ルイ・アームストロング」でした。第5話となる今回は、「インプロヴィゼーション(即興演奏)とスキャット」についてお伝えしたいと思います。

 スキャットとは、いわば声のインプロヴィゼーション。ジャズにおいて、インプロヴィゼーションあるいはスキャットがどんな意味を持つものか、ご理解いただいて、ご自分でスキャットをなさる時の参考にしていただければ幸いです。

 アメリカの黒人作家、ラングストン・ヒューズは、即興演奏について次のように語っています。

 [昔のニューオーリンズのジャズ演奏者たちは、自分の耳や心に染みついたおなじみのメロディーやリズムを幾つか、組み合わせ、つなぎ合わせ、発展させて演奏しました。かれらには、楽譜は必要ありませんでした。即興演奏をすること……つまりその場で部分的に作曲をしながら、同じ曲を違ったように演奏することは……かれらの喜びでした。一つの曲をいつも同じように杓子定規に演奏するのではなく、その時の感じ方に合わせて、まったく違う演奏をつくっていくのが、楽しくてたまらなかったのです。そしてジャズはスリリングで楽しい音楽として知られるようになりました。彼らの演奏は、悲しい昔のブルースでさえ、その憂鬱(ブルー)なメロディーの奥に、何かしら、良いものへ、何かしら幸福なものへと、何処とも知らず歩んで行くような、エキサイティングな雰囲気を持っていたからです。ルイ・アームストロングが、トランペットを持ち上げ、即興演奏の準備を始めると、人々は期待に胸を膨らませました。彼がブルースを歌うと、人々は、悲しさと同時に興奮を感じたのです。彼が「スキー・ダッドル・ド・ディー・ダッドル」などと意味のない語句をならべ、スキャットを始めると、人々は、お腹をかかえて笑い転げました。こんなに楽しい音楽はない……人々は、そう思ったのです。]

 インプロヴィゼーションの天才と言われたのが、1940年代から60年代にかけて活躍したサキソフォン奏者のチャーリー・パーカー。彼は、非常に短いフレーズを即興でどんどん発展させていったり、スタンダード・ナンバーのコード進行を使ってまったく別の新しい曲をつくったりと、ハイレベルなことを、次々にやってのけ、モダン・ジャズの旗手になりました。パーカーの音楽を語る時、忘れてはならないのは、彼の出す音がたいへんインプレッシブ(印象的)で、そのフレーズが非常にエモーショナル(感情のこもった)であったこと。ルイ・アームストロングと同様、パーカーも、即興演奏が素晴らしかったが故に、ジャズ界のカリスマになったのです。

 一つの曲を演奏する(あるいは歌う)時、決められた小節数やコードの中で、元の曲では表現しきれない何かを、ほとばしるように表現するのがインプロビゼーションの極意。本当に素晴らしいインプロヴィゼーションにはテクニックだけでなく、エモーション(感情)があります。
 というと、なにか難しいことように、思われるかも知れませんが、趣味で楽しむ程度のスキャットなら、どなたにも、できますので、皆さんも是非、チャレンジして下さい。

 コツは簡単。一つの曲の中から2小節か4小節を選び、その部分のコード進行、ベース音の動き、ピアノの和音のつけかたなどを、頭にいれた上で、主役になる音を決めて、その音を中心にリズミカル(シンコペーションや三連符などが効果的)に音を配置して、シャバドゥビ、ディダディダ、ウィーダバディヤ、など歯切れよい語句を並べればよいのです。間奏のあとやエンディングなどで、歌詞を外してもいい箇所が入れやすいでしょう。

 以上、インプロヴィゼーションとスキャットについて、簡単にまとめました。ご質問がある方は、遠慮なく私のところにいらして下さい。


Jazz Essay 6 / モダンジャズ・エイジへの序章~Be Bop
 ジャズとは、一般に、南北戦争で奴隷制度が廃止されたのち、南部の農園から大都市ニューオーリンズに流入した黒人たちによって、つくられた音楽といわれています。最初はローカルな民族音楽の域を出ませんでしたが、20世紀の初頭、西洋音楽の素養を身につけた一部の黒人演奏家と、ジャズの独特なリズム感に魅せられた白人ミュージシャンのコラボレーションで、いわゆるスウィングが生まれ、これがダンス音楽として一世を風靡します。とはいえ、その時点(1930年代前後)では、ジャズはまだ大衆音楽であり、真の芸術として社会に認められたわけではありませんでした。

 ジャズを、クロウトをうならせる高度な芸術へと飛躍させるきっかけとなったのは、1940年代に生まれたバップ(ビ・バップともいう)という革新的なスタイル。ジャズ史の専門家はバップの興隆は、アメリカ社会における、一つの革命であったといいます。

 マイノリティとはいえ、アメリカ国民の少なからぬ部分を占める黒人層は、奴隷解放後も差別を受け、「黒人は白人より劣等である」と見なされていました。スウィングの全盛期、黒人演奏家は、自分が演奏する店に、家族や友人を呼ぶことはできず、あのルイ・アームストロングでさえ、白人に従順でなければ仕事ができない、という状況に置かれていたのです。

 そうした社会に反逆を試みたのが、バップ・ミュージシャンたち。1940年代の始め、彼らは既成のスウィング・バンドで生活費を稼ぎ、深夜、ニューヨークのミントンズ・プレイハウスなど、黒人が集まるライブ・ハウスに、ノーギャラで出演して、それまで誰も想像し得なかった、エモーショナルな即興演奏を繰りひろげました。

 白人のためのダンス音楽ではなく、あくまで黒人の自己表現のための音楽。高度なテクニックを身につけたものだけができる、融通無碍なアドリブ。そこで、黒人ミュージシャンは、初めて、白人に対する優位性を実感することができたのです。彼らが活躍を始めた時期は、第2次世界大戦勃発時であり、多くの黒人兵が国のために戦っていたという事実も、バップ運動に影響を与えたといわれています。

 バップの真骨頂はエモーショナルな音と、融通無碍なアドリブですが、それを実現する過程で、リズムやテンポも劇的に変化しました。スウィング・ミュージックは、ダンス音楽ということもあってほとんどの曲が、1分間に100拍から200拍というミディアム・テンポで演奏されますが、バップでは、速い曲は1分300拍、逆に遅い曲は1分80拍以下、というように、曲想に合わせてテンポに大きな差をつけたのです。

 スウィング・ミュージックは、4拍子の曲で、ドラマーがバス・ドラム(大太鼓)でドンドンと景気よく基本のビートを叩き、シンコペーション(付点音譜)でスウィングさせるのが特徴でしたが、1分300拍のスピードでは、ドラマーはとてもついてゆけません。バップの創始者の1人である、ドラマーのケニー・クラークは、最初は足でペダルを踏むバス・ドラムで4拍子を刻んでいましたが、あまりにも速すぎて、下半身が動かなくなるので、シンバルを多用して、バス・ドラムの音はアクセント程度に加えるという方式を考案。これがバップのドラマーの演奏法として定着します。  代わって拍子を刻む基本のビートを奏でる楽器として重要な役割を担うことになったのがウッドベース。ベースが4拍子の2拍目と4拍目にアクセントを置きながら、シンコペーションをつけず、均等な長さでリズムを刻むという、モダン・ジャズの基本スタイルは、この時代に生まれました。

 エキサイティングなバップの時代の担い手は、いずれも、いわゆるはみ出し者ばかり。バップ革命の火付け役でギタリストのチャーリー・クリスチャンは、テンガロン・ハットに黄色い水玉の靴、明るいグリーンのスーツに紫のシャツに蝶ネクタイ、といったいでたちでステージに現れ、観客の度肝を抜いたといいます。クリスチャンはジャズ界で最初にエレキギターを使った人物。20才そこそこで、ニューヨークのライブ・ハウスの寵児になり22才の若さで亡くなりました。

 バップ革命は、このほか、ラウンド・ミッドナイトを書いたピアニストのセロニアス・モンク、アドリブの神様、チャーリー・パーカー(サックス)とディジー・ガレスピー(トランペット)といったスーパースターを産みだしましたが、この中でも、モンクとパーカーは極めつきの変人。ガレスピーもキレやすい性格で若い頃、刃傷事件を起こしています。

 しかし、彼らが創造した音楽は、本物の芸術品。この時代のミュージシャンには「レコードが普及したら生演奏を聞きに来る客が減り、仕事がなくなる」という考えがあり、1942年には、音楽家組合によるレコーディング・ボイコット運動が行われたほどなので、残念ながら、レコードは、わずかしか現存していませんが、機会がありましたら、皆さまも、是非、お聞きになってみてください。


Jazz Essay 7 / 一つの頂点〜モダンジャズ・エイジ
 Jazz Essayの締めくくりのテーマは「モダンジャズ・エイジ」。ジャズ史のなかでモダンジャズ・エイジとされるのは1940年代から60年代頃のことで、アメリカ社会においてジャズが高尚な芸術として認められた時期でもあります。ジャズはニューオーリンズでローカル音楽として姿を現わしてからわずか50年で、一つの頂点を極めたのです。

 歴史が短いだけに中心的役割を果たした人物の数も限られており、同じ人物がジャズ史のなかの異なる時代、異なるジャンルにまたがって活躍しているという例がたくさんあります。ですから、「あの人はクール・ジャズの人」「あの人はスウィングの人」といった区分はむつかしく、かつ危険であるということをご承知おきください。

 モダンジャズ・エイジはさまざまな動きが凝縮して起こった複雑きわまりない時代です。以下に述べるのはおおまかなくくりであることをご了承ください。

(1) ビ・バップからモダンジャズ・エイジへのキーパーソン……チャーリー・パーカー
(注:ビ・バップについてはJazz Essay 6 をご参照ください)

 私が1980年代にアメリカのカレッジでジャズの歴史を学んだ時、テキストには次のように書かれていました。『ジャズ史上、真の天才と呼ばれる人物は2人いる。それはルイ・アームストロングとチャーリー・パーカー。愛すべきエンターティナーであったアームストロングと違って、チャーリー・パーカーはSociopath(ソシオパス:社会的に好ましくない行動をとる人)の傾向があったとされている。パーカーには金銭や女性がらみのトラブルが絶えず、家族、後援者、同僚のミュージシャンを情け容赦なく傷つけ、アルコールとドラッグに溺れ、亡くなった時は34才だったのにまるで老人のような姿であった』と。    

 彼がそうなってしまったのは、不条理な人種差別に対する底知れぬ怒りのせいだという人もいれば、愛情や優しさの表現の仕方を知らなかっただけという人もいます。しかし、やり場のない怒りや、押し込められた感情は、すべてアルトサックスを通じて表現されました。パーカーのサックスの音色、高度なテクニック、独創的でエモーショナルなアドリブは、当時の人々には、まさに「衝撃」であったと言います。そして、パーカーに「衝撃」を受け、触発されたミュージシャンたちが、ある者はヨーロッパ的洗練を求め(ウェストコースト派、クール・ジャズ)、ある者はアフリカ的なものへの回帰をはかり(ハード・バップ)、ある者は前衛に走り(フリー・ジャズ)、というように多様な道をたどりながらモダンジャズ・エイジの主役となってゆくのです。

(2) ヨーロッパ風洗練への流れ……クール・ジャズ

 ビ・バップは感情の面では非常にホットでありながら、技術的には高度に洗練された音楽でした。(例えば1分間に300拍という驚異的なテンポで、キイを目まぐるしく変えながら、難しいフレーズを即興演奏するといったような……)その洗練性が白人リスナーやミュージシャンを惹きつけ、ジャズの評価を高めたのです。そして「同じ高度なテクニックを使うのでも、ビブラートがたっぷりかかった熱いトーンでギンギンに演奏するのではなく、フラットな軽いトーンで繊細に都会的に表現する」クール・ジャズが生まれます。(クールはパステル・トーン、ライト・トーンと呼ばれる軽いトーンを意味します)

 クール・ジャズにおいて重要な役割を果たしたのはマイルス・ディビス、レニー・トリスターノ、スタン・ケントン、スタン・ゲッツ、ジェリー・マリガンなど。しかしマイルス・ディビスは常に時代を先取りする人なので、ここには長くとどまっていませんでした。

(3)黒人的なものへの回帰……ハード・バップ

 ジャズの流れの根底には、黒人と白人、アフリカ・カリブ音楽とヨーロッパ音楽の衝突と融合、せめぎあいが常に存在します。ビ・バップの興隆のあと、洗練の方向へと向かう流れに対抗するように現れたのがハード・バップ(ファンキー、ソウルともいう)でした。

 キイワードは、ゴスペルの精神、ブルーノート、土くささ。そこには「ホットじゃなければジャズじゃない」という強烈なメッセージを感じます。

このグループには、アート・ブレイキー、チャーリー・ミンガス、ソニー・ロリンズなど大物がずらり。名盤もたくさんあります。

(4) フリー・ジャズ

 モダンジャズのなかでも最も難解なのがフリー・ジャズ(別名フリー・フォーム)。「自分が本当に表現したいものを表現するために、すべての束縛を離れて自由に演奏しよう」という理想はよいのですが、コード、既存のハーモニー、小節、テンポ、キイといった決まりごとのすべてを無視した演奏というのは、なぜか人を不安にさせる、という意見もあります。このグループで有名なのは、オーネット・コールマン、セシル・テイラー。フリー・フォームの提唱者ではありませんが、「ジャズ界の聖人」といわれるジョン・コルトレーンの「アセンション」というレコードは、フリー・フォームの最高傑作といわれています。

 ビ・バップを皮切りにしたモダンジャズ・エイジは、アメリカの黒人が「当然のように差別されていることの不当性」に気づき、白人と平等の権利を求め、(少なくとも法律的には)その権利を勝ち取った時期と重なります。この時、一つの頂点を極めたジャズは、音楽の世界に確固たる地位を築いたのです。そして、ジャズがアフリカ音楽やヨーロッパ音楽からいろいろなものを吸収したように、こんどはジャズを養分にして、フュージョン、クロスオーバーなど、新しいサウンドが創造されました。新しい音楽とジャズとの関係については異論があるかもしれませんが、モダンジャズ・エイジにジャズが一つの頂点を極めたという点については、おそらく皆さまにも同意していただけるでしょう。

 芸術の世界では、進化をしたら、以前の古いものがすべて失われるということはありません。ジャズもまたしかり。ラグタイム、ディキシーランド、スウィング、ビ・バップ、クール、ハード・バップ、フリー・フォームといったジャンルが今なおそれぞれの愛好者を持ち、世界中で楽しまれています。 

すばらしきジャズの世界に乾杯!

【付録 ジャズの基礎知識】

1)ブルースについて

音楽の世界では一般にブルースは憂うつな思い、悲しい思いをこめた曲をさしますが、その起源は、アメリカの黒人音楽にあります。ブルースはジャズの起源の一つといわれ、日本の歌謡曲のブルースとは違って、一定の形式を持っています。平凡社の大百科辞典のブルースの項目を一部引用しますので、参考にして下さい。

「ブルースはアメリカ黒人の伝統的大衆音楽の形式、奴隷解放ののち、南部農業地帯の黒人たちが、抑圧のなかで味わった個人的感情をつぶやくように吐き出す歌として発生し、20世紀初頭にほぼ一定の形式を持つようになった。米西戦争(1898年)ころから、アメリカ南部にギターが普及したことが大きく関与しており、ブルースは、ギター弾き語りのかたちにまとまるなかで、西洋音楽の和声構造を身につけた。標準的なブルースの定型はAABの3行から成る詩を12小節におさめ、各行ごとに後半でギターが歌の間に割り込むかたちになっている。そのギターの即興的な入りかたが、即興音楽としてのジャズを生む母体になったとする学者もおり、ブルースがジャズの基盤の一つであったことはまちがいない。」 ブルースの歌詞は苦しみや哀しみを歌っていても、3行の詞のうち、最後の一行は、あきらめにも似た笑いでしめくくることが多く、その英語のニュアンスは、日本人には、理解しがたいものがあります。しかし、音楽的な面、とくに、ブルース進行といわれる12小節のコード進行は、非常に感興をそそられるもので、日本にも、ブルースに魅せられる人が多いのです。よく知られている曲としては『ルート66』が1コーラス12小節のブルース進行のコードで作られた曲です。ルート66の歌詞はブルース的なものではありませんが、ブルースの音の展開を知るには有益だと思いますので、スキャットを練習する際の参考にして下さい。

2)ボサノヴァについて

ボサノヴァは、1958年頃、ブラジルで生れたサンバの新しい形態で、作曲家、ピアニストのアントニオ・カルロス・ジョビンや歌手、ギタリストのジョアン・ジルベルト(アストラット・ジルベルトの夫)が生みの親。それまでの野生と熱狂を特徴とするサンバとはちがって、アメリカ西海岸のクール・ジャズに似た知的で落ち着いた感覚と新しいハーモニーが特徴です。初期の代表的な曲は『ノーモアブルース』『デサフィナート』(ともにジョビン作)。1963年に同じくジョビン作の『イパネマの娘』がアメリカでヒット。以後、ボサノヴァはアントニオ・カルロス・ジョビンの努力もあって、世界に広まっていきました。ブラジルのサンバといえば、一般に、速いテンポの16ビートで躍動感にあふれる感じがありますが、ボサノヴァは、サンバとはちがって、よせてはかえす波のようなノリの8ビート。そこが「けだるく都会的」といわれるゆえんです。ボサノヴァの歌を、それらしく歌うコツは、途切れずに流れる8ビートの波を、身体でつかんで、それに乗ること。過度に、リズムを刻んだり、メリハリをつけたりすると、雰囲気をそこなう恐れがあります。ただし、これは、あくまで、初心者のためのアドバイス。感じをつかんだあとは、ご自分で、いろいろな表現法を、工夫してみてください。

3)用語について

ヴァース(verse):スタンダード曲では、歌の前に軽く語られたり、歌われたりする、その曲への導入部をさし、省略されることも多いが、『スターダスト』のようにヴァースが大きな存在感をもつ曲もある。

コーラス(CHORUS): ヴァースとは違う歌の本体の部分でリフレイン(すなわち繰り返し)としるしている楽譜もある。

ブリッジ(BRIDGE):スタンダード曲にはAABAという構成のものが多いが、そのBの部分をブリッジという。すなわち橋渡しという意味。日本では、サビともいわれる。

リフ(RIFF),セカンド・リフ(SECONDO RIFF):リフはもともとメロディとは別につけるフレーズを意味する。セカンド・リフは、アドリブが長く続いた時、途中で挿入する、原メロディーにはないフレーズのこと。『Whisper Not』のセカンドリフにはのちに早口言葉のような歌詞がつけられ、多くの歌手にうたわれている。